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サイクリングに


小戸公園、福岡の隠れおすすめスポット。気持ちよかった〜。

フィールドワーク


このまえの週末、大分県旧蒲江町の浦と呼ばれる地域を散策してきました。作家の小野正嗣さんがNHKでインタビューされていた映像がすごい良くて、それ以来気になってしょうがない場所だったんだけど、仕事のタイミングを見計らってようやく訪れることが出来たのでした(近くにインターがあったから思ったよりすぐ来れた)。
大分の山のカルチャーにはこれまでも触れてきたけど、海にも濃密なものがありそうで、懐の深い土地なんだなあと改めて。
「海の資料館」という当時の漁業のありようをアーカイブした施設が面白くて、そこでのメモを◎

・古くは熊野から流れ着く。四国や瀬戸内から魚を追って蒲江の地へ。海部の民と進んだ漁の技術を持った移住の民とが融合。いちはやくあらたな漁法を導入するなど、古くは海を通じた広範囲な人的交流。

・漁師たちの信仰はエビス様で浦々にはエビス様のお宮が。漁を終え港に入る時、エビス様や氏神さまのためにお供えのイヨバトウ(魚初穂)をあげる、タイなどの一対の魚を海に投げ入れる。

・船霊さま、船大工より船に収められる。

・蒲江は漁業で四国と関連深い関係で、金毘羅講や石鎚講が盛ん。とくに石鎚山。大祭にはこぞって参拝。山開きに漁祈願で四国までお参り。いまでも各浦ごとにお山講を作って登拝するという。

・海部のひとびとの逞しい生業の力はつましい日々の暮らしから湧き上がる。それは、左人形(さつまいも)右イワシという諺にもあらわれるほど質素。「板子一枚下は地獄」、海の仕事には大変な危険がつきまとう。大量も不漁も自然の力で左右。畏敬の海への浦人たちの情熱は祭りや信仰に燃え上がる。

山梨


先日、山梨に数日滞在してました。
こっちのほうは山にとにかく迫力があって、山好きにはたまらない風景。三方、名山に囲まれ、八ヶ岳、南アルプス、そして富士山の威容!
そのふもとの街、富士吉田にも。ハタオリマチフェスティバルというイベントに行き、土地の熱量を肌で感じる。トリはBaobabの演奏。めちゃ良かったなー。
富士山はバンドでいうとローリングストーンズのように、王道ゆえの近寄りがたさを感じていたけど、今回の旅ですごく興味が湧いてきた。こんどは登ってみたい!

打ち合わせ


但馬屋さんへ。ゆっくり進めていたものが昨日すこし前進。良かった良かった。この数日急に寒くなってきましたねえ、シャツを着たいのにこの感じ、すぐ冬になっちゃいそうですよね、みたいな話に。

津屋崎へ


友人たちのおうちへ遊びに。いちおう本題はあったんだけど、作ってもらった美味しいご飯と飲みものの前に例のごとく脱線。。でもゆっくり話ができて楽しかったな〜。夜にお邪魔して、けっきょく次の日のお昼までのんびりさせてもらった。

鹿の眼


突然「ピュウッ」と鳴き声が聞こえてくる。山でよく出くわす鹿の鳴き声に視線を移した時、大抵そこにはなにもいない。けれど気づかないうちに林を隔ててすぐそばにいたりもして、向こうもこちらに気がつくとささっと逃げていく。

夜に出会った時のこと。午前3時にヘッドライトを頼りに山頂へ向かっていた時見つけたのは、植物の朝露のようにキラッと光るなにか。なんだろうと視線を注ぐと、そこには光を反射した鹿の両目があった。暗闇のなか動物の目だけが浮かぶ光景はなかなか恐ろしい。それも結構な群れだ。鹿は基本的には臆病な動物だと言われているけれど、ふいに人を襲うこともあるという。恐る恐る、その場所を後にする。ふうっと一呼吸。冷や汗をかく一場面だった。

だけど、こんな出来事ほど、山歩きの記憶に残る。暗闇の先になにがあるか分からないまま歩みを進める夜の山も、改めて思い出すと、歩きをより噛みしめられていた感じがして、悪くなかったといまでは思う。

(『鹿の眼』「どんな日の生者たち」より)
Photography: 荻野智生

古地図をたどる


山岳信仰のご神体でもある由布岳。台という草原が山の中腹にあって、いまではあまり人の姿は見られないが、過去にはその拠点となる佛山寺が建てられていた。古地図の真ん中にも台と記されているのを見ると、当時は山の中心となるエリアだったのかもしれない。

草原から森のなかに入り、しばらく歩き続けるとたどり着くことのできる観音岩という場所では、わずかに残る信仰の名残を感じることができる。そこだけ木々が刈り取られ、陽が差し込み、中央には巨大な岩。岩の裂け目には道祖神のような石像が安置されていて、素朴な佇まいだけれど、その存在感にはしばらく見入ってしまうものがある。

加えて、この場所にはキリシタンの信仰も栄えていた。町はずれの墓地にも足を運んでみると、独特の印の刻まれた墓石が並んでいた。いちばん信仰が盛んだった時期にはキリシタン集落も生まれ、山の頂上には信徒によって十字架が掲げられたこともあったんだとか。修験道の山としてはなかなかのエピソードだ。けれど、ふもとの村人も見物に訪れていたという記録を見る限りでは、案外優しく迎えられていたのかもしれない。 そんなキリシタン信仰も、禁教以降は跡形もなく消え去り、墓石群を除くと、遺構もまったく出てこないと言われている。

色んな信仰が肩を並べて静かに時を刻む墓地の風景を眺めていると、物悲しいような、微笑ましいような。なんとも言い難い気持ちになるのだった。

(『古地図をたどる』「どんな日の生者たち」より)

休日


パタゴニアの南。好きなコーヒー屋さん。

ピュアリサーチ


プロダクトデザイナーのマイク・エーブルソンさんの言ってる「ピュアリサーチ」って言葉が好きだ。ある目的を達成するためにリサーチを行うんじゃなくて、目の前の純粋な興味からスタートして、手足を動かしながらあてどなくリサーチを行っていくこと。そんな彼のやり方をそう呼ぶんだって。

それは例えば、橋梁の構造とか魚の口のかたちについてとか、それぞれは唐突な着目点なんだけど、そこからジャンプして、思いもよらない製品を作ったりする。まっすぐ目的を遂行するんじゃなく、ふらふらと散歩してるみたいな制作の過程って感じ。

面白いのはリサーチだけしてモノを作らない場合もあるところ。むしろそれを「思考をしなやかに保つためのエクササイズ」として日課のように取り組んでるんだそう。 好奇心をたいせつに、日々を面白がる態度をそこに感じる。方法論としてもそうだけど、暮らしぶりをあらわす言葉として、最近のキーワードになってます。

傑作


昨日作ったカレーが最高すぎた。玉ねぎを茶色になるまで蒸し炒めたあと、セロリ、しょうが、にんにくを微塵切り、いろんなスパイス、さらにバター、ローリエ、トマト加えて、骨つき鳥もも肉も入れて鍋で1時間煮込んだやつ。時間かかるけど簡単だし超うまい!うますぎて写真撮るの忘れた。

お出かけ


気になってたnayumaのテントサウナに。良かったなー。施設も包容力ある感じでのんびりできました。こんど友人夫婦Fさんたち(いろいろ教わってる)ともいっしょに来ようっと!

立石山


糸島で仲間とミーティング。話し合う場所を変えてみた。

移動


台風の前後で大分を往復。気になっていたワークショップの説明会に顔を出したのち、すぐ福岡へもどったのでした。 帰り路、晴れながら雨が降っていて、面白い景色に。こういうふとした風景に奥深さがあるのが大分の好きなところです。ここは庄内あたりかな? 心配してたけど、通行止めの影響がなくてよかったなー。

自然相手


うきはの喫茶店でデザインの打ち合わせ。いっしょに仕事をしているカメラマンさんは梨農家もやってるみたいで、話をしているうちにこんど収穫を手伝わせてもらうことになった。楽しみだ。聞くと、若い世代の農家のコミュニティが彼の周りにもあるそうで、多くはちがう職業から転職してきた人たちなんだって(まさに違う畑から)。よそものが居心地いい自分にとって、ダイレクトに土地と向き合う仕事はリスペクト。自然相手だと、大変なことも多いみたい。

屋根裏でこっそり酒


唐津やきもん祭りへ。
7、8年前につるんでいたけど、さいきんは全然連絡をとってなかった、唐津焼の窯元で学んでいたともだちの作品がお店で展示してあるのを偶然見かけたので、思わず立ち止まる。昔見せてもらったものと比べると、うまく言えないけどなにか変化があるみたいで、それが素直にカッコよかった。し、駆け出し当時のこと(工房の屋根裏でこっそり酒を飲んでいろいろ語ったり)を思い出したりして、なんだかウルッときてしまう。悩んだすえにひとつ購入して、さっそく使ってみてるけど、やっぱり良い感じだ。 ひさびさ連絡とってみようかなあ。

昔行った場所



海と聞いた時、ぼくがイメージする風景はこんな感じだった。外へ向かって広がる解放的なムードじゃなくて、磯のにおいが漂う、ちょっと湿った感じの風景。

リアス式海岸特有の曲がりくねった道を走ってたどり着く、小さな入江に広がる浜、点在する漁師町。子供の頃、海水浴へ連れて行ってもらっていたのはそんなところで、港町やリゾートとは違う風景だった。だから、福岡の海を見たとき、海ってこんなに明るい場所なんだ!とびっくりした。

そういえば、作家の小野正嗣さんは生まれ育った大分県南部の漁師町を舞台にした作品をたくさん書いているみたいで、その故郷を「浦」と呼んで、重要なテーマにしているんだそう。そんなふうに、作品に影響を与える自分の原風景のような場所のことを「トポス」と言うらしい。インタビューだけ読んで、小野さんの作品はまだ読めてないんだけど、あの海のイメージと重なる部分もあるような気がしてる。
そして、自分にとってのトポスはなんだろう?と思う。それはたぶん、故郷を離れた18歳の時からずっと考えている。

単に生まれ育った場所が好きだとか、地元に戻りたいっていうわけじゃない。それよりもっと答えのない、うまく言えない感じのなにかなんだけど、ふと、その感覚により向き合いたいと思うようになってきた。それで子供の頃の写真を探したり、昔行った場所を思い出したりすることが、さいきんは多い。

(『昔行った場所』「マイムーブ」より)
Photography: 青木紀子

未熟のころ



大学を卒業し1年ほど、地元のショッピングモールでアルバイトをしていた。色んな仕事があるなかでなぜだか苦手な接客の仕事を選んでしまい、パートのおばちゃんに叱られながらせっせとお金を貯め、その後、ヨーロッパを4ヶ月ほど旅をした。

日本を出発するまであいだYoutubeやiPhoneのアプリなどで簡単に英語の勉強を始めてみたものの、多分たいていの人がそうなるように僕もすぐに飽きてしまい、あまり上達しないまま飛行機に飛び乗ることになる。

以前マレー半島を旅した時には、旅をしながら英語がどんどん上達していく実感があったので、今回もそんな感じでなんとかなるだろうと踏んでいた。けれど、アジアの人たちに通じていたジェスチャーや会話の間合いのようなものは、ヨーロッパの人たちにはまったくと言っていいほど通じなかった。そうして思った以上に意思疎通が取れないということに凹んでしまい、最初の数週間はせっかくヨーロッパまで来たのにほとんど誰とも話さず、ゲストハウスのベッドの上で一日中インターネットを見ているような鬱屈とした日々を過ごしていた。

そんな旅に変化が訪れたのは、ロンドン、アントワープ、アムステルダム、ベルリン、コペンハーゲンと北上を続け、今度は暖かい国に行きたいと思って、ヨーロッパの南のほうを目指し、移動を始めた時だったと思う。

スイスのバーゼルという町に辿り着き、ユースホステルに宿泊。部屋でたまたま一緒だったのが、田舎町から土木関係の仕事でやって来たヤーコプと、どこか放蕩者っぽい賢そうなチェコ人のリチャード。一人で過ごしている自分を気に掛けてくれたのか、リチャードに声を掛けられ、一緒にハンバーガーを食べに行った。夜の川べりで3人でビールも飲んだ。アゲハっていう日本のクラブイベントを知ってるか?と聞かれ、知らない、と答えると、もったいない!という表情の2人。バーゼルではマック・デマルコのサードアルバムを繰り返し聴いていた。

同じユースホステルで仲良くなったチーさん。
ヴェネチアの美術大学に留学していた中国人の彼女と気が合い、一緒に電車でミラノに向かう。 そこで彼女が紹介してくれたのが、同じくデザイン学校に通う中国人のカイさん。チーさん、カイさんと一緒に博物館に向かったものの、僕は英語が話せないし、彼女たちはイタリア語しか話せなかったので、ほとんど会話らしい会話ができなかった。話すことといえば、展示されているイタリアン・ミッドセンチュリーの椅子や古伊万里の焼物を「I like this」と言ってみたり、「Me too」と返したり、そんなやりとりばかりだった。

ただ、拙いながらも人と意思疎通が取れたということが、旅に大きな安心感を与えた。彼女たちが 「I Like This」と伝えてくれたことは、彼女たちのごく個人的な視点でミラノの町案内ではなかったのだけど、僕にとってはすごく嬉しくて、いまでもふいに思い出すことがある。

ヴェネチアで泊まった「Ca Della Pieta」という宿のオーナーのセバッグさんも親切にしてくれた一人。 地元の人が通るのだろう、見上げるとロープで洗濯物が干してあるような入り組んだ小さな道を抜け、立ち飲み酒場に連れて行ってくれた。そしてウェルカムドリンクだよ、とスプリッツを奢ってくれた。オレンジとぶどうの中間のような味でオリーブの実が中に入っている、甘いジュースのような飲み物だった。

「昔、俺の宿には日本人が長く滞在していたんだ」とセバッグさん。だからなのか、自分の言葉もセバッグさんにはスッと伝わっていた。 「もし次、ダイキがヴェネチアに来てくれたら、それはビッグデザイナーになれたという証だな!」と言われて、まだデザイナーでもないモラトリアムな時間を過ごしていた僕は、その言葉にドキッとした。

どちらかというと人と話すのが億劫なのに、一人でいる時は人と話したがっている。けれどいざ人と会うとなると、やっぱりうまく話せない。そんなややこしい自分にとって、「言葉は分からないけど話している」という状況はある意味気楽でもあったし、言葉にできない分、違うなにかで自分を伝えようと努力していた気がする。そして思い出すたびに、そんなことができていた自分がとても不思議に思えてくる。

その後、地中海沿岸、バルセロナ、マドリッド、リスボン、パリを巡ったのちに、ロンドンからソウルを経由し日本に帰国した。
ヨーロッパからなにかを得たという感覚も曖昧なまま、今までの気だるい生活のツケとしてデザイン会社で真面目に働き始めた。旅それ自体は僕に力を与えるようなものではなかったけれど、その代わりに方向を示してくれた。振り返ると、その方向に向かい動き始めたことで、ゆっくりと自分の輪郭がかたち作られたのだと思う。

そうしてヨーロッパで出会った人たちの背中を追いかけるような思いを抱きながら、旅を終えたその後の日々を過ごしていた。

(『未熟のころ』「Los Poemas Diarios #4」より)