竹田の家

空間、出来上がってきた。オレクトロニカさんに色々お願いしました。家を借りると宣言して一年経ち、借りてからは半年近くいじっていたので、牛歩と言えば牛歩。だけど、新しい暮らしの変化をどう刺激に感じ、一番いい形にしていくかについて考えを巡らす機会も、その時間のぶん、この家からは受け取っていた。
木の違い

大分に戻る前日、今季の冬山のチャンスは今回と次回しかない!と気づいて、また八ヶ岳へ向かった。
地面にはまばらな雪。そこに夕陽が差し込んでいたのがきれいだった。長野県の原村、白樺と呼ばれるエリアで、その名前も含めていい。
木の形も匂いもふだんいる場所とは違う。北部九州の木はどこか甘い匂いがするけれど、こっちの木はもう少し乾いた、べつの感じがする。
北と南

アパートから南アルプスが見える。
富士山に次ぐ高峰・北岳がそびえるはずなのに、町から眺める山容はどこにでもありそうな素朴な姿だ。
近づかないとその大きさがわからないという点では、くじゅうに似ていると思う。
くじゅう連山の南嶺は、八ヶ岳の北嶺に似ていると思ったこともある。色んな側面があるという意味で、案外くじゅうは原型的な山なのかもしれない。
そしてその麓の町に普段はいるのだ。
新しい場所を訪れるとき、すでに知っている場所のことを思い出す。幾つかのことを重ね合わせながら、目の前の出来事を理解しようとするところがあるのだろう。
水辺のそば

車を借りて、おすすめしてくれた湖まで行ってみた。水辺のそばに野営地があり、キャンプを楽しむ人たち。また涼しくなって泊まってみたいと思ったりしながら、いつの間にか湖を一周していた。たくさん写真を撮った。
クヌルプヒュッテ

霧ヶ峰高原のクヌルプヒュッテ。
いろんな芸術家が逗留し、宿代代わりにそれぞれの作品を残していったのだそう。
漁業のありよう
このまえの週末、大分県旧蒲江町の浦と呼ばれる地域を散策してきました。作家の小野正嗣さんがNHKでインタビューされていた映像がすごい良くてそれ以来気になりまくってた場所で、ようやく訪れることが出来ました(近くにインターがあったから思ったよりすぐ来れた)。
大分は海の文化にも濃密なものがありそうです。 当時の漁業のありようをアーカイブした「海の資料館」という施設が面白くて、そこでのメモを。
・古くは熊野から流れ着く。四国や瀬戸内から魚を追って蒲江の地へ。海部の民と進んだ漁の技術を持った移住の民とが融合。いちはやくあらたな漁法を導入するなど、古くは海を通じた広範囲な人的交流。
・漁師たちの信仰はエビス様で浦々にはエビス様のお宮が。漁を終え港に入る時、エビス様や氏神さまのためにお供えのイヨバトウ(魚初穂)をあげる、タイなどの一対の魚を海に投げ入れる。
・船霊さま、船大工より船に収められる。
・蒲江は漁業で四国と関連深い関係で、金毘羅講や石鎚講が盛ん。とくに石鎚山。大祭にはこぞって参拝。山開きに漁祈願で四国までお参り。いまでも各浦ごとにお山講を作って登拝するという。
・海部のひとびとの逞しい生業の力はつましい日々の暮らしから湧き上がる。それは、左人形(さつまいも)右イワシという諺にもあらわれるほど質素。「板子一枚下は地獄」、海の仕事には大変な危険がつきまとう。大量も不漁も自然の力で左右。畏敬の海への浦人たちの情熱は祭りや信仰に燃え上がる。
鹿の目

突然「ピュウッ」と鳴き声が聞こえてくる。山でよく出くわす鹿の鳴き声に視線を移した時、大抵そこにはなにもいない。けれど気づかないうちに林を隔ててすぐそばにいたりもして、向こうもこちらに気がつくとささっと逃げていく。
夜に出会った時のこと。午前3時にヘッドライトを頼りに山頂へ向かっていた時見つけたのは、植物の朝露のようにキラッと光るなにか。なんだろうと視線を注ぐと、そこには光を反射した鹿の両目があった。結構な群れだと思う。暗闇のなか動物の目だけが浮かぶ光景は恐ろしい。基本的には臆病な動物だと言われているけれど、ふいに人を襲うこともあるという。恐る恐る、その場所を後にする。
ふうっと一呼吸。
こんな出来事は、山歩きの記憶に残る。
暗闇の先になにがあるか分からないまま歩みを進める夜の山も、改めて思い出すと、歩きをより噛みしめられていた感じがする。
Photography: 荻野智生
休みの日

パタゴニアの南。好きなコーヒー屋さん。
散歩するような

プロダクトデザイナーのマイク・エーブルソンさんの「ピュアリサーチ」という言葉が好きです。ある目的を達成するためのリサーチではなく、目の前の純粋な興味からスタートして、手足を動かしながらあてどなく調べものを行っていく彼のやり方をそう呼んでいるんだそう。
例えば、橋梁の構造とか魚の口のかたちについてとか、それぞれは唐突にも思える着目点なのだけど、そこからジャンプして思いもよらない製品を作ったりする。まっすぐ目的を遂行しない、ふらふら散歩するような制作の過程です。
面白いのはリサーチだけしてモノを作らない場合もあるところ。むしろそれを「思考をしなやかに保つためのエクササイズ」として日課のように取り組んでるんだとか。
日々の好奇心を大事にする姿勢をそこに感じる。方法としてもそうだけど、暮らしぶりの指針として最近のキーワードになっています。
糸島

仲間とミーティング。話し合う場所を変えてみた。
昔行った場所
海という言葉を聞くと、ぼくの頭に浮かぶのは、磯のにおいが漂う、ちょっと湿った感じの風景だ。
子供の頃、海水浴へ連れて行ってもらっていたのは、リアス式海岸特有の曲がりくねった道を走った先にある小さな入江や、点在する漁師町。そこにあったのは華やかさとは程遠い素朴さだったから、福岡の海を初めて見たとき、海はこんなに明るい場所だったんだと驚いた。
そんなふうに海の風景について考えていると、作家の小野正嗣さんを連想する。彼の生まれは大分県南部の海辺の町。自らの故郷を舞台とした作品をたくさん書いていて、その故郷を「浦」と呼んで、重要なテーマにしているのだそう。そういう、作品に影響を与える自分の原景のような場所のことを「トポス」と言うらしいが、そのような物語の舞台が、ぼくが思い浮かべる海のイメージとぴったり重なる気がするのだ。
では、自分にとってのトポスは何だろう。それを恐らく、故郷を離れた十八歳の時からずっと考えている。
生まれ育った場所が好きだとか、地元に戻りたいというノスタルジーとは少し違う、もっと言い表しにくい感覚なのだけど、そのことに改めて向き合いたいと思うようになったこの頃。
それで、子供の頃の写真を探したり、昔行った場所にまた足を運ぶということが、最近は多い。
Photography: 青木紀子
発光

その日も山に登るつもりで大分まで足を運んだ。前日から大雨でどうしようかと思ったのだけど、やっぱり行くことにした。
山霧が木々のあいだに充満していた。視界は悪いし、手足は濡れ、山の音は雨にかき消される。登山道は小さな川のようになっていて、それを股のあいだでかわしながら歩いていく。雨、雨、雨。いままで晴れか曇りの時にしか訪れたことがなかった由布岳の慣れない雨道だった。
流れに逆らうようにどんどん歩みを進めると、一歩一歩が打ち消されているような感覚で、歩いているのになにも進めていないというか、妙な浮遊感と不安が蓄積されていく。
しばらく行くと、深い樹林帯を越えて、分厚い霧の隙間から少しずつ光が差し込んできた。ホワイトアウトした風景に光が乱反射して白色に発光することで、体積をもった光のかたまりみたいに見えて、それをそのまま手で掴んでみたくなった。景色をぼうっと見ていると、心もスッと晴れたような気がした。天候に合わせてぼくの心も動いている感触があった。
草原から森の中

山岳信仰のご神体でもある由布岳。台(でえ)という草原が山の中腹にあって、いまではあまり人の姿は見られないが、過去にはその拠点となる佛山寺が建てられていた。古地図の真ん中にも台と記されているのを見ると、当時は山の中心となるエリアだったのかもしれない。
草原から森の中に入り、しばらく歩き続けるとたどり着くことのできる観音岩という場所では、わずかに残る信仰の名残を感じることができる。そこだけ木々が刈り取られ、陽が差し込み、中央には巨大な岩。岩の裂け目には道祖神のような石像が安置されていて、素朴な佇まいだけれど、その存在感にはしばらく見入ってしまうものがある。
加えて、この場所にはキリシタンの信仰も栄えていた。町はずれの墓地にも足を運んでみると、独特の印の刻まれた墓石が並んでいた。いちばん信仰が盛んだった時期にはキリシタン集落も生まれ、山の頂上には信徒によって十字架が掲げられたこともあったんだとか。ふもとの村人も見物に訪れていたという記録を見る限りでは、案外優しく迎えられていたのかもしれない。
そんなキリシタン信仰も、禁教以降は跡形もなく消え去り、墓石群を除くと、遺構もまったく出てこないと言われている。
色んな信仰が肩を並べて静かに時を刻む墓地の風景。
未熟のころ
大学を卒業し一年ほど、地元のショッピングモールでアルバイトをしていた。
色んな仕事があるなかで何故だか苦手な接客の仕事を選んでしまって、パートのおばさんに叱られながらせっせとお金を貯め、その後ヨーロッパを五ヶ月ほど旅した。
出国するまでのあいだユーチューブやスマホのアプリで簡単に英語の勉強を始めてみたものの、多分たいていの人がそうなるように僕もすぐに飽きてしまい、あまり上達しないまま飛行機に飛び乗ることになる。
以前マレー半島を旅した時には、歩みを進めるごとに英語が上達していく実感があったので、今回もそんな感じでなんとかなるだろうと踏んでいた。
けれど、アジアの人たちに通じていたジェスチャーや会話の間合いのようなものは、ヨーロッパの人たちにはまったくと言っていいほど通じなかった。人と通じ合えないということは想像以上にくらうものがあり、その結果せっかくヨーロッパまで来たのにほとんど誰とも話さずゲストハウスのベッドで一日中インターネットを眺める日々を数週間も過ごすハメになる。
そんな旅に変化が訪れたのは、ロンドン、アントワープ、アムステルダム、ベルリン、コペンハーゲンと北上を続け、今度は暖かい国に行きたいと思って、ヨーロッパの南のほうを目指し、移動を始めた時だったと思う。
スイスのバーゼルという町に辿り着き、ユースホステルに宿泊。部屋でたまたま一緒だったのが、田舎町から土木関係の仕事でやって来たヤーコプと、どこか放蕩者っぽい賢そうなチェコ人のリチャード。一人で過ごしている自分を気に掛けてくれたのか、リチャードに声を掛けられ、一緒にハンバーガーを食べに行った。夜の川べりで三人でビールも飲んだ。アゲハっていう日本のクラブイベントを知ってるか?と聞かれ、知らないと答えると、もったいない!という表情の二人。バーゼルではマック・デマルコの「Salad Days」を繰り返し聴いていた。
同じユースホステルで仲良くなったチーさん。ヴェネチアの美術大学に留学していた中国人の彼女と気が合い、一緒に電車でミラノに向かう。 そこで彼女が紹介してくれたのが同じくデザイン学校に通う中国人のカイさん。チーさん、カイさんと一緒に博物館に向かったものの、僕は英語が話せないし彼女たちはイタリア語しか話せなかったので、ほとんど会話らしい会話にならなかった。話すことといえば、展示されていたイタリアン・ミッドセンチュリーの椅子や古伊万里の焼物を「I like this」と言ってみたり、「Me too」と返したり、そんなやりとりばかり。
だけど、拙いながらも人と意思疎通出来たということが旅に大きな安心感を与えた。彼女たちが 「I like this」と伝えてくれたことはミラノの町案内でない彼女たち個人の視点でしかなかったのだけど、いまでもふと思い出すくらい嬉しいことなのだった。
ヴェネチアで泊まった「Ca Della Pieta」という宿のオーナーのセバッグさんも親切にしてくれた一人。チェックインを終えて早々、地元の人が通るのだろう、見上げるとロープで大量の洗濯物が干された入り組んだ路地に連れていかれる。その奥にあったのは小さな立ち飲み酒場。ウェルカムドリンクだよ、とセバッグさんはスプリッツを奢ってくれたのだ。
「昔、俺の宿には日本人が長く滞在していたんだ」と彼は言う。だからなのか、拙い言葉も不思議なくらい彼には伝わっているようだった。
「もし次、ダイキがヴェネチアに来てくれたら、それはビッグデザイナーになれたという証だな!」。まだデザイナーにもなっていないモラトリアムな時間を過ごしていた僕は、そんな言葉にドキッとしてしまう。
どちらかというと人と話すのが億劫なのに、一人でいる時は誰かと話したがっている。けれどいざ人と会うとなるとやっぱりうまく話せない。そんなややこしい自分にとって「言葉は分からないけど話している」という状況はある意味気楽でもあったし、言葉にできない分、代わりの何かで自分自身を伝えようと努めていた。そして思い返す度にそんなことが出来ていた自分がとても不思議に思えてくる。
その後、地中海沿岸、バルセロナ、マドリッド、リスボン、パリを巡ったのちに、ロンドンからソウルを経由し日本に帰国した。
ヨーロッパからなにかを得たという感覚も曖昧なまま、今までの気だるい生活のツケとしてデザイン会社で真面目に働き始めた。旅それ自体は僕に力を与えるようなものではなかったけれど、その代わりに方向を示してくれた。振り返ると、その方向に向かい動き始めたことで、ゆっくりと自分の輪郭がかたち作られたのだと思う。そうしてヨーロッパで出会った人たちの背中を追いかけるような思いを抱きながら、旅を終えたその後の日々を過ごしていた。
(『未熟のころ』「Los Poemas Diarios #4」より)