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鹿の眼


突然「ピュウッ」と鳴き声が聞こえてくる。山でよく出くわす鹿の鳴き声に視線を移した時、大抵そこにはなにもいない。けれど気づかないうちに林を隔ててすぐそばにいたりもして、向こうもこちらに気がつくとささっと逃げていく。

夜に出会った時のこと。午前3時にヘッドライトを頼りに山頂へ向かっていた時見つけたのは、植物の朝露のようにキラッと光るなにか。なんだろうと視線を注ぐと、そこには光を反射した鹿の両目があった。暗闇のなか動物の目だけが浮かぶ光景はなかなか恐ろしい。それも結構な群れだ。鹿は基本的には臆病な動物だと言われているけれど、ふいに人を襲うこともあるという。恐る恐る、その場所を後にする。ふうっと一呼吸。冷や汗をかく一場面だった。

だけど、こんな出来事ほど、山歩きの記憶に残る。暗闇の先になにがあるか分からないまま歩みを進める夜の山も、改めて思い出すと、歩きをより噛みしめられていた感じがして、悪くなかったといまでは思う。

(『鹿の眼』「どんな日の生者たち」より)
Photography: 荻野智生